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北海道に憧れ、北海道を愛し、しっかりとたくましく北海道に根を下ろしている人々のドキュメンタリー。

北海道開拓TODAY:CASE14〜北海道開拓記念館

本州に比べ「歴史が浅い」といわれる北海道ですが、明治の開拓使以降の歴史しか知らない方も多いのではないでしょうか? 北海道に人が住み始めたのは今から約2万年前ともいわれています。豊かな自然と大地に恵まれた北海道。人びとはその自然と戦い、 共存しながら現在の北海道を作り上げてきました。

北海道にまつわるさまざまな資料が展示されている「北海道開拓記念館」を訪ね、北海道の歴史をまとめました。
※本ページ内の文章は「北海道開拓記念館」の展示物を参考にしてまとめたものです。

先史時代の北海道

■北海道島のはじまり

北海道島は、第三紀後半の約3000万年前にユーラシアプレートと北米プレートがぶつかりあい、その力が現在の日高山脈にあたる部分を持ち上げてその骨組みができあがった。ほぼ現在の北海道島ができあがるのは、第四紀中頃の約40万年前よりあとで、 地殻の変動や海水面の変化などが作用し合って、変化に富んだ山地や丘陵、さまざまな形の平野や湖沼などがつくられた。

11万年前頃から気候の寒冷化が始まり、氷河が発達し海水面の低下が起こった。宗谷海峡は7万5000年前頃に姿を消し、北海道と樺太(サハリン) は陸続きになった。寒冷な気候によってマンモス象などの大型ほ乳動物が大陸から南下しはじめ、これらの動物を追って人々も北海道に移動してきた可能性が考えられている。

■旧石器時代

北海道で暮らした人々の生活の跡で最も古いのは約2万年前のものが確認されている。これを旧石器文化と呼び、約2万年前から1万年前頃まで続いていた事が知られている。このころの人々は、おもに狩猟や採集で生活を営んでいた。

■縄文時代

約1万年前になると気候が温暖化し海面が上昇して宗谷海峡ができ、北海道は島となった。気候がさらに暖くなった約8000年前頃から縄目の模様がついた土器の使用がはじまり、人びとは狩りや漁、木の実の採集、植物の栽培などで生活を営んでいた。この時代は縄文文化と呼ばれている。

6000年前頃には気候が最も暖かくなり、自然の食料資源が豊かになり人口も増え、生活は安定したものとなった。 しかし4000年前頃になると気候は一転して寒くなり、この自然環境の変化は人びとの生活にも変革をもたらし、 呪術や祭祀が盛んに行われるなどの精神文化の変化が認められようになった。

■続縄文時代

2300年前頃、北九州では大陸から稲作と金属が伝わり、急速に日本列島中に広まった。それが弥生文化である。しかし北海道には金属器が伝わったものの稲作は伝わらず、以前からの狩りや漁、木の実の採集を中心とした生活がつづいた。この時代の北海道は続縄文文化と呼ばれている。 続縄文文化の終わりの頃になると、北海道の人びとは東北地方の北部へ、また、樺太(サハリン)の人びとは北海道へ南下するなどの移動が行われた。

マンモス象化石
縄文文化時代の土器
縄文文化時代の生活

アイヌ文化の成立

■オホーツク文化

5世紀頃、高度な海獣狩猟と漁業を行う人びとが樺太(サハリン)からオホーツク海沿岸部に渡ってきた。この人々の文化をオホーツク 文化と呼び、彼らはクマに代表される動物儀礼をおこなっていた。オホーツク文化は後のアイヌ文化に影響を与えたと考えられている。

■擦文文化(さつもんぶんか)

続縄文文化に続いて起こった文化を擦文文化と呼び、13世紀頃までつづいた。これはアイヌ文化の原形となった。人々は河口近くに集落を作り、 漁労と狩猟・畑作農耕で暮らしを営んだ。土器の形式や住居などが同時期の本州のものと似たものになり、本州文化の影響を強く受けたと考えられる。

この時期には鉄を中心とした交易が盛んになった。

■アイヌ文化

アイヌ文化は擦文文化の伝統を受け継ぎ、さらに和人(わじん)や北方民族との接触の中でその影響を受けながら独自の文化を形成していった。

和人との交易活動が活発になり、人びとは猟で得た熊や鹿などの毛皮を和人の持ち込む鉄の道具・漆器・米・布などと交換した。

こうした和人との経済的交流の中で、クマ送り儀礼を代表とする多様な信仰体系ができあがっていき、ユーカラをはじめとする口承伝承によって神、自然、人びとへの対処の仕方などが受け継がれていった。

アイヌ民族の住居(チセ)
アイヌ民族の装い

松前藩の誕生

■統一政権と松前藩

14世紀初期の蝦夷(えぞ)は、アイヌ民族と土着した和人集団で構成されていた。和人の土着集団は遠隔地との交易活動を盛んに行い政治的成長を遂げたが、 次第にアイヌ民族の生活領域をおびやかし始め、両者は対立しはじめる。

江戸時代初期には幕府から蝦夷地に対する支配権を認められた蠣崎(かきざき)氏によって和人勢力はまとめられ、松前を中心に和人社会が形成された。 この頃、和人主導による不当な交易による不満が原因とする和人とアイヌ民族との争いが多発したが、16世紀の中頃、蠣崎氏とアイヌ民族の首長との間に講和がなされ、蝦夷島主としての蠣崎氏の政治的地位は確立した。

さらに蠣崎氏は幕府からアイヌ民族との交易独占権を認められ松前藩が誕生した。松前藩は、本州にまで及んでいたアイヌ民族の交易の活動範囲を制限し、交易の統制とアイヌ民族への支配を次第に強めていった。

松前藩の不公正な貿易などに対して怒ったアイヌ民族は、惣大将のシャクシャインを中心にして松前藩との戦いを起こした。 この戦いは3年続き、最終的には松前藩の勝利に終わった。以後アイヌ民族は松前藩の支配のもとにおかれることとなる。

■諸外国の進出

18世紀後半,欧米諸国が蝦夷地周辺に進出しロシアが通商を求めたため、幕府は危機感を深めた。このため幕府により蝦夷地調査が行われ、 この地の確保と豊富な資源の吸収に力を注いだ。また、アイヌ民族は蝦夷地確保の政策の一つとして強制的に和人化する政策がすすめられた。

安政元年(1854)幕府と諸外国が和親条約を結んだことにより、ペリーの率いるアメリカ艦隊が箱館に来航した。 和親条約に基づき、安政2年(1855)箱館港が燃料・水・食料などの供給港として開港し、日米修好通商条約後は自由貿易が開始され貿易港となった。 こうして、箱館にはロシアやアメリカ、イギリスなどから多数の外国船が来航し、外交官、商人、宣教師などの外国人が住み、箱館は異国情緒あふれる町になっていった。

■箱館戦争

時代は幕末で混乱の時期を迎えた。慶応4年(1868)4月、維新政府は箱館奉行所に変えて、箱館裁判所を設け、翌月箱館府と改称した。 榎本武揚ら旧幕府軍は軍艦海陽丸などの船を率いて鷲ノ木(森町)に上陸し箱館を占拠した。そのため「箱館府」 知事の清水谷公考は青森へ撤退しなければならなかった。11月に福山城を攻略した旧幕府軍は榎本武揚を総裁として選出し、 五稜郭を拠点に蝦夷島政権を樹立した。しかし、明治2年(1869)5月新政府軍の攻撃により榎本は降伏、長期に及んだ戊辰戦争は箱館戦争の終結で終わりを告げた。

アイヌ民族が作製・使用したイタオマチップ
交易品として用いたトドやクマの毛皮
松前藩とアイヌ民族の交易活動
箱館戦争の舞台となった五稜郭

近代北海道のはじまり

■開拓使の設置

明治政府は明治2年(1869)に開拓使を設け北海道の開拓を始めた。 8月には蝦夷地を北海道と改称し、11の国と86の郡の行政区画を定めた。ロシアの脅威や北海道開拓拠点の面から開拓の中心地は札幌とし、札幌本庁舎の建設が始められた。 札幌は市街区画の基盤が完成し、碁盤の目に区画されたため広い道路が整備され、人口も急増し、洋風の建物が並ぶ近代的な都市となり、北海道の行政の中心地としての姿を急速に整えていった。

国境を決めていなかったため日本とロシアの雑居状態であった樺太(サハリン)を視察した開拓次官黒田清隆は、 経済的にも軍事的にも欧米諸国と同等の力をつけることが先決であることを痛感した。 そのため政府は開拓使に対して多額の予算(明治5年から10年間で総額1000万円)の財政投資を行い、西洋の文化・技術の導入をはかった。

これをうけて、開拓使はアメリカ合衆国農務長官ケプロンをはじめ、多数の外国人技術者を招き、彼らの技術指導のもと開拓は進められた。 また人材養成機関として我が国最初の農科大学である札幌農学校の設立がすすめられ、明治9年(1876)に開校した。 マサチューセッツ農科大学学長クラークが招かれ、経験的・実際的な教育がおこなわれた。 開拓使は道路の建設、鉄道の整備、炭鉱の開発、官園(試験場)、官営工場の建設もすすめ、技術の普及をはかった。

■士族屯田兵

明治政府や開拓使は積極的に北海道を開拓する移民を募集したが、明治初期には府県の農民が土地を捨て北海道に移住する条件は、 まだ整っておらず定着するものは少なかった。例外は戊辰戦争に敗れたり、廃藩置県などで失業した武士たちで彼らは旧領主のもとにまとまって移住した。

またロシアとの関係の緊迫化にともない、軍備の充実と農業開拓の推進をはかる屯田兵制も定められた。 屯田兵として東北諸県の困窮士族を家族ぐるみで移住させ、札幌の琴似を第一陣として道内各地に屯田兵村を設立していった。 軍隊の規律による屯田兵村や主従関係で結ばれた武士団の村は、その後の開拓者の模範となった。

■北海道開拓とアイヌ民族

蝦夷地の住民とされてきたアイヌ民族は、明治維新により和人への同化を強制された。アイヌ民族の狩りや漁の場であった山や原野は国有地になり、狩猟の制限、あるいは禁止され、農耕がすすめられた。

「旧土人」の呼称が定められ、日本語や日本名を押しつけ、入れ墨や耳環をつける習慣なども禁止された。 それにより伝統的なアイヌ文化の破壊と民族差別がすすんだ。また、和人開拓者の入地や樺太・千島交換条約にともない、 新しい土地に強制的に移されたアイヌの人びとも多かった。

開拓使札幌本庁舎
陸橋を走る義経号
開拓者の模範となった屯田兵
開拓使が買い入れた洋式農具

開拓最盛期

■産業の発達

明治4年(1871)以降、開拓史は生産物を加工し販路を開くための官営工場を多数建設した。 また炭鉱の本格的な開発もはじめ、石炭輸送は幌内鉄道によって確保された。各地の港湾の整備が盛んになり、 定期航路が函館から横浜、青森、小樽、根室の各地へ開かれた他、室蘭と森の間にも設けられた。 さらに道路網の整備とともに旅行者の交通と宿泊の便を図るため、北海道独特の駅逓所(えきていじょ)の制度が整備され、多数の駅逓が設置された。 駅逓所は人馬を備えた駅舎で郵便の中継ぎもかねていた。

■北海道庁の設置

明治19年(1886)北海道庁が発足し、明治21年(1888)には赤レンガ庁舎とよばれる北海道庁庁舎が完成した。 従来の国の直営による開拓方針から、民間資本による開拓が主となり、道庁はその活動を助ける働きを行うこととなった。 北海道庁は道内を治める行政を行うほか、開拓適地の選定調査、水産や鉱床調査、官営工場の払い下げ、また道路や鉄道、港湾の建設にも力を注いだ。 一般開拓農家への未開地の処分は1戸につき5町歩(約5ヘクタール)とし、また市街予定地も設定した。これらの事業によって、北海道的特色を持った農村風景や市街地が形成された。

■移住者の急増

明治20年(1887)代、開拓予定地の区画が進むと北海道移住者が急増し、開拓地も石狩地方から上川地方へ、さらに十勝地方へと広がった。明治初期は主に士族層や屯田兵が多く、一般の移民は少数だったが、 その後は本州以南の離農者や、東北の大凶荒により貧しい生活を強いられていた東北・北陸地方の多くの農民が移住してきた。 開拓移住者はまず自分の住む小屋を建て、故郷から持参した衣類やわずかな家財道具で開拓生活をはじめた。 しかもほとんどの人は厳しい冬の寒さの中での生活の経験がなく、越冬は命がけであった。 また、資力に乏しい貧民の中には、大農場の小作移民として移住するものも多かった。 北海道の人口は明治19年(1886)の約30万人から大正7年(1918)の約217万人へ、耕地は3万ヘクタールから80万ヘクタールへと著しく増加した。

■屯田兵から第七師団へ

明治27年(1894)日清戦争が始まると、屯田兵にも動員令が下り臨時の第七師団が編成された。 その後、第七師団が設置され屯田兵制度は廃止された。第七師団司令部は当初は札幌に設置されていたが、明治33年(1900)10月旭川に師団司令部を移した。 その後日露戦争によって軍備の拡大がすすめられ、旭川は軍都として大きく発展した。

■アイヌ民族と「北海道旧土人保護法」

明治のなかば以降、移民が増加して開拓が進展するとアイヌ民族の生活基盤が失われていった。 このため明治32年(1899)「北海道旧土人保護法」が制定され、農耕の推奨、医療支援、教育強化を行いアイヌ民族の救済と同化を進めたが、アイヌ民族の困窮はさらに進み、民族の社会と伝統的文化の破壊が進んだ。 この法律は、アイヌ民族の歴史に大きな影響を及ぼし、貧困と民族差別がその後も長く続くことになった。

■北海道議会の設立

明治22年(1889)に大日本帝国憲法が発布され、帝国議会が開かれたが、北海道民には選挙権が与えられず地方自治制も認められなかった。 しかし、札幌・函館・小樽などは大きく発展しつつあり、これらの都市の住民が中心となって北海道議会開設運動が繰り広げられた。 明治34年(1901)には北海道議会が開設され、明治35年(1902)には全道的に参政権も認められるようになった。 このような社会的情勢を背景に北海道各地で新聞が発行されるなど言論活動も活発となった。

奈井江町区画測設の様子
開拓の道具
移住者の衣類
北海道農業の特徴である馬耕
繁栄する鰊漁

不況から戦争へ

■明治の産業と発展都市の生活

第一次世界大戦の好景気は北海道の産業にも大きな発展をもたらした。 大正7年(1918)には蝦夷地を北海道に改めてから50年目を記念して北海道博覧会が開かれ、このころから函館・小樽・ 札幌などに本州の企業や銀行の進出が進出し経済が活発になった。 商業では近代的経営方式が採用され、百貨店やレストラン、映画館ができ、路面電車が開通、自動車、 自転車、蓄音機が普及するなど町は活気に満ちた。 こうした変化の背景には、人びとの文化的生活に対する意欲の高まりと石炭鉱業や食品、繊維、重化学など、鉱工業の発展があった。

■第二期拓殖計画と社会運動

第一次世界大戦中の好景気によって頂点に達した北海道への移住は、戦後の不景気によって停滞することとなった。 政府は新たな拓殖計画をたて、府県の人口増加にともなう社会問題や食料問題の解決策として、再び北海道移住が奨励された。 この時期の主な開拓地域は道東の根室・釧路・十勝地方に移った。北海道庁は移民の保護指導に力を注いだが、 自然的社会的条件が厳しく開拓者は苦難の道をたどった。 その他に空知や上川は稲作、十勝や網走は畑作というように地域ごとに専門的に生産する方法もこの時期はじまった。

この時期大正デモクラシーの思潮は北海道にも広がり、労働争議、小作争議などが各地で繰り広げられるようになった。 しかしこうした社会的、文化的運動は、大正14年(1925)の普通選挙法とともに公布された治安維持法によって厳しく弾圧されていった。 また、昭和4年(1929)に始まる世界恐慌に加えて道内に相次いだ水害や凶作は生活苦をもたらし、食料不足と女性の身売りが社会問題になった。

■戦争と北海道

昭和12年(1937)7月日本軍と中国軍の武力衝突が起こり、日中の全面戦争に発展した。戦争は中国から東南アジアに広がり、さらに太平洋戦争へと拡大した。 北海道の拓殖計画は行き詰まり、かわって満州開拓へと移住者が渡航していった。長びく戦争は生活物資や労働力の不足をもたらし、 道内各地の鉱山や土木工事ではそれを補うため朝鮮人や中国人のほか、連合国捕虜の強制労働がおこなわれ、多くの犠牲者を出した。 昭和20年(1945)には本土への空襲が激しくなり戦災疎開者を受け入れるが、空襲は道内にも及んだ。原爆投下とソ連軍参戦の結果、 日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日の敗戦を迎えた。

■アイヌの主張

アイヌ民族の同化政策は大正末から昭和のはじめにかけても引き続きすすめられ、生活の貧困化が進んだ。 一方ではアイヌ民族の抵抗や主張が目立つようになり、昭和5年(1930)にアイヌ協会が設立され、翌6年(1931)には第一回の全道アイヌ青年大会が開催され、アイヌ民族の自覚と団結が叫ばれた。 またアイヌ自らの手による文学作品や雑誌なども多数出版されるようになったが、戦時体制が強化されるとアイヌ民族もその中に組み込まれていった。

採炭技術の進歩
大正時代の三等列車内
兵士の装備
防空壕の様子

戦後の北海道

■北海道産業の復興期

昭和20年(1945)代は敗戦によって著しく生産力の低下した北海道産業の復興期であった。未開発資源の多い北海道が再び注目され、 昭和27年(1952)政府は新たに北海道総合開発計画を立て、農林漁業をはじめ地下資源や工業開発、電源開発、道路、港湾、 空港の整備、治山、治水などの災害対策、生活環境の改善などを目的に多くの事業が進めた。 しかし、沿岸漁業の中心であった鰊漁は昭和30年(1955)頃になると途絶え、エネルギー革命にともなう石炭から石油への交代により、石炭産業は急速に斜陽化した。また、 農村や漁村から都市部への人口移動による過疎・過密など、新たな問題も生れた。

■戦後の道民生活

敗戦によって多くの引揚者や復員者が北海道に帰ってきたが、ほとんど着の身着のままの状態で、終戦後もさまざまな生活苦を強いられた。 道民の生活は生産の停滞、高物価、物資不足などで混乱し、さらに昭和20年(1945)の大凶作により食料事情は最悪となり食料、衣類などの配給品の遅配、欠配が続いた。札幌の狸小路や地方都市の駅前などにヤミ市が開かれ、米や雑穀などの食料品、衣類などの生活物資が売られた。 値段は公定価格の数倍から数十倍に跳ね上がった。 食料不足の解消と失業者救済のため緊急開拓事業が開始され多くの開拓移住者を迎え入れたが、この計画は資金や資材が乏しく土地条件が劣悪なために開拓者の営農と生活は極めて苦しいものであった。

■戦後改革

敗戦は日本の社会の仕組みを根本から変えることになった。 北海道も占領軍の指導のもと、政治・経済の全般にわたって軍国主義を一掃し民主化を進めるための改革が行われるようになった。 新しい憲法の制定・財閥の解体・戦争協力者の公職からの追放・農地開放などさまざまな改革が行なわれた。 また、婦人の参政権や言論の自由など基本的な権利が大幅に認められ、政党や労働組合の活動も盛んになった。

■高度経済成長期と現代道民生活

昭和30年(1955)代後半になると日本経済の高度成長にともない道民生活にも大きな変化がもたらされた。 洗濯機・冷蔵庫・テレビなどの家庭電化製品の普及、化学繊維を用いた防寒着や新しい建材を使った寒地住宅の充実、また、 交通手段としてのオートバイ・自家用車の普及などにより生活は大きく変貌した。札幌市では人口が100万人を突破して政令指定都市になるまでに成長した。

■現在の北海道

北海道での暮しの大きな障害であった冬の寒さと雪の有効利用という考えが広まり、雪祭りや道民参加のスキー競技など、冬の行事が全道各地で開催されるようになった。 昭和47年(1972)札幌オリンピック冬季大会が開催され、さらに各地の温泉設備が整備されたことにより、スキーと温泉は冬の北海道観光の主力になった。 また、昭和62年に成立したリゾート法により道内各地にゴルフ場、スキー場が乱立したが、バブル崩壊により現在はその多くが厳しい 状況となった。近年は、「見る」観光から「体験」観光へと観光形態も移行してきており、北海道ならではの自然を楽しむツアーや 農村などでの滞在型休暇ツアーなども注目されている。

戦後ヤミ市風景
農機具の機械化
家庭電化製品の普及
交通手段の進化
冬の生活の変化

北海道開拓記念館

北海道開拓記念館は、昭和46年4月15日に北海道百年を記念して開設された北海道立の総合歴史博物館です。 常設展示は、北海道の自然や歴史に関する資料の調査・収集・保存し、大人にも子供にも親しみやすい形で展示解説をしています。 また、期間をきめて特別展示・テーマ展示などもおこなっています。北海道の歴史・文化に関連した講演会・講座・映画会・講習会なども開催し、 道内の博物館等施設の中心的役割を果たしています。

〒004-0006
札幌市厚別区厚別町小野幌
Tel 011-898-0456

【観覧時間】
9:30〜16:30(入館は16:00まで)

【休 館 日】
毎週月曜日・年末年始(12/29〜1/3)
祝日(ただし4/29、5/3、5/4、5/5、9/17、9/23、10/8、11/3は開館します)
祝日が月曜日の場合の振替休館日(7/17、9/18、10/9、1/15、2/12)
展示場清掃・整備のための休館日(12/20、12/21)

【観 覧 料】
一般 450円(団体360円)
高校・大学生 150円(団体120円)
小中学生 無料
・団体は10名以上です。
・65歳以上の方、障がいのある方などは無料です。
・高校生も土曜日は無料。学校団体でのご利用などは無料になる場合もあります。詳しくはお問い合わせください。
HP http://www.hmh.pref.hokkaido.jp/